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佐久間ダム ・ 発電所

 戦後の電力不足解消のトップバッターとしてまたその後の日本の大型機械によるダム建設の嚆矢となった佐久間ダム・発電所

 東京駅発7:03の”ひかり”に乗車して浜松下車,レンタカーを駆って佐久間町(現在は浜松市天竜区佐久間)に向かう。
 本来ならば一泊して周辺の施設もゆっくりと見たいところだが,妻のスケジュールと折り合いがつかず日帰り強行軍となった。
 浜松駅前を9時にスタート,1時間ほどで天竜川最下流に建設された船明(ふなきら)ダム入口交差点を通過。ここもちょっと寄りたい場所ではあるが,なんせ日帰りでは時間的余裕が無い,先を急ぐ。
天竜川に沿う国道152号(473号併設)をしばらく走る。10kmほど走ると,右手に秋葉ダムが見えてくる。船明・秋葉両ダムともこれから今回訪れる佐久間ダムと同じ企業者が建設・運営しているのでほぼ同じ設計思想で建設されているのでデザインは共通だという。
 さらに10kmほど,大井橋で国道152号と分かれ国道473号を進み佐久間町方面へ向かう。4kmほどで佐久間町中心部に到着。左手にJR飯田線”さくま”駅を過ぎると川側に佐久間発電所,そこからしばらくすると”ちゅうぶてんりゅう”駅,佐久間ダムの標識が現れる。標識に従って右折し,トンネルを4つくぐると佐久間ダムに到着。時刻は11時少し前,予定より30分ほど早めの到着である。


   佐久間ダム(1956年(昭和31)竣工)

  ダムサイト左岸の駐車場に車を停めて,4番目のトンネルを少し戻ると右側に横坑が設けられていてダム展望台に抜けられる。ここからダム全体を正面から眺められる。今は人っ子一人いない山峡にどーんと構えて天竜の水を静かに湛えている。建設工事中は,削岩機や発破の大音響・ショベル・ブルドーザの喧騒が谷間に響き渡っていたことだろう。太平洋戦争終戦から10年も経ていないあの時期にかくも巨大なダムを3年という短い期間で建設したものかという思いが込みあがってくる。

 佐久間ダムは水力発電専用を目的とし,戦後日本経済が復興へと向き始め一般家庭のみならず工業地帯への電力供給が急務となっていた時期である1952年(昭和27)に発足した国と九電力会社が共同で出資する公営企業・電源開発株式会社によって建設された。ダム完成によって出現した人造湖は佐久間湖(さくまこ)と呼ばれ,全長33キロメートル,湖面は静岡・愛知・長野県に広がる。
 ダム地点は静岡県浜松市天竜区佐久間と愛知県豊根村の天竜川狭窄部で,両岸は険しい断崖でV字谷を形成し,基礎岩盤も堅硬な花崗閃緑岩でダム建設にはまたとない良好な場所である。

  ブルドーザーなどの大型機械やコンクリート製造プラントなどの近代化大型機械を導入し,この規模のダムとしては三年四ヶ月という当時の技術としては異例の短期間で造られた。革新的なこの技術はその後のダム建設のみならず,日本の土木技術にも大きな影響を及ぼし,「日本土木技術の金字塔」などと称えられている。
 佐久間ダムに続いてあるいはラップして田子倉ダム,御母衣ダム,奥只見ダムなどの巨大ダム建設の嚆矢となり,また巷間,佐久間ダムでの成功を見て関西電力は、難易度が高いと言われた黒部峡谷へのダム建設、即ち黒部ダム・黒四発電所の建設を決意したと言われる。
   ダム全景(下流展望台から)
 誕生以来半世紀ちょっと,暴れ川だった天竜の水をゆるぎなく支えている。非常用洪水吐はローラーゲート5門
ダム天端全景(電力館展望台から)
 向こう側(右岸)が愛知県,こちら側(左岸)が静岡県。右下は取水塔。
    ダム天端より直下を望む
 

佐久間ダムに関するデーター      
所 在 地 :左岸:静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間,右岸:愛知県北設楽郡豊根村大字古真立
形    式 :コンクリート重力式ダム
頂 長 さ :約293.5m
高    さ:約155.5m
堤体積 1,120,000 m³
貯水池全容量  :約3億立方メートル
貯水池有効容量:約2億立方メートル
着工年/竣工年 1953年/1956年
    佐久間発電所の取水塔

 おしゃれでレトロなデザインだ。
    佐久間ダム竣工記念切手
 
 1956年10月15日に発行された「佐久間ダム竣工(しゅんこう)記念」切手。ダム完成を記念して発行された記念切手は佐久間ダムと小河内ダム(東京都。多摩川)の二ダムのみである。

 ダムサイト左岸の上部に「佐久間電力館」という展示施設がある。ここは,建設工事時点には,コンクリートを製造する”バッチャープラント”や練ったコンクリートをバケットに積み込む”バンカー線”があった所だという。小中学生や一般向けに,ダムの話,発電の仕組み,ダム基礎岩盤花崗閃緑岩の実物・・・・が展示されている。3階の展望台からダム本体を真下に見ることができる。

 国鉄(当時)飯田線付け替え・湖岸道路・大嵐(おおぞれ)駅

 12時すこし過ぎ,電力館見学を終える。
ダムが建設されて出来た佐久間湖は上流33kmまで堪水し,この付近の山あいのわずかな平地に点在していた集落(240戸・296世帯)が水没したという。天竜川沿いを走っていた国鉄飯田線の約18キロメートル区間も当然水没し,東側に大きく迂回するルートに付け替えられた。水窪方面から”大原トンネル”を抜けて再び天竜川に沿う本来のルートに復した場所にあるのが”大嵐駅”である。
 鉄道マニアには有名なこの大嵐駅に行ってみようと予定変更。佐久間ダムからは右岸側に上流へ向かって愛知県道1号線が走っている。この道を北上して大嵐駅へ向かう。カーナビによると距離およそ20km,40分ほどの行程である。

 この道路は,長野県飯田市から静岡県浜松市天竜区東栄に至る総距離91km(珍しいことに三県で統一された番号をもつ長野県道・愛知県道・静岡県道1号 飯田富山佐久間線)である。今回走った大嵐駅までのおよそ20km区間は,急カーブの多い狭隘な悪路が続き,何故かダンプカーの通行が多い(理由はすぐに判明した)ため,多くのトンネル内に離合のための待避所が設けられていたり,短いトンネルでは,トンネル内に対向車がいないことを確認してから進入するなど運転に神経を使った。

 ダム天端を渡って幾つかのトンネルを抜けた所に,佐久間湖を下池,1972年に竣工した新豊根ダム(みどり湖)を上池とした揚水式発電所(新豊根発電所)が見える。ほとんどが地下施設なので見えるのは地上に出ている開閉所だけ。
 またしばらく行った所に,砂山とベルトコンベアーと湖面に浚渫船が見える。
2005年(平成17)から国土交通省中部地方整備局がはじめた「天竜川ダム再編事業」の一環として治水(洪水調節)機能を付加し多目的ダムへと変身させるためのダム湖堆砂除去工事である。ここから上流に掛けて何艘もの浚渫船が稼動していた。こんな狭い道をダンプトラックが頻繁に走っている訳が判明。

 天竜川流域内は急峻な地形と相まって中央構造線からなる脆弱な地質から豪雨・出水のたびに浸食される土砂はきわめて多い。


 13:20 愛知県豊根村富山と対岸の静岡県磐田郡水窪(みさくぼ)町に架かる鷹巣橋を渡ってJR飯田線”大嵐駅”に到着。駅前には人家が一軒も無い,当然無人駅である。ここへ来れば食堂は無理としても売店くらいがあってパン・牛乳など何か食せると思っていたがまったく当てが外れた。

 【大嵐駅】
 ホームには若い女性が独りだけ電車を待っている。時刻表を見ると13:40発の上り豊橋行き電車がある。間もなくやって来る。ホームに上ってカメラを構えて待つこと10数分。飯田方のトンネルを抜けてやって来たのは2両編成の普通列車,3人が下車してくだんの女性を乗せて,豊橋方大原トンネルに吸い込まれていった。
 ”大嵐駅”は,トンネルとトンネルの間のわずかな明かり区間に設けられた山峡の駅で静岡県に位置するが,佐久間湖対岸の愛知県北設楽群富山村への最寄り駅として知られている。瀟洒な待合室は,富山村が建てたという。国鉄飯田線建設時,この付近にも別のダム計画があったために,天竜川よりかなり高い位置に設置されたため佐久間ダム建設による水没から免れたという,同じく水没を免れた富山集落の外界への足がかり拠点となっている。この富山村も過疎化が進行し人口200人ほどの日本一のミニ村として有名?であったが,現在は豊根村富山地区となっている。
 わたしは,昭和38年の夏,飯田線”伊那大島”から”豊橋”まで乗車したことがある。本来なら辰野へ出て中央東線で新宿へ向かうのが普通だが,小渋川を遡った山間部にこもりひと月以上も新鮮な魚を食べていなかったので,豊橋へ出て旨い寿司でも食おうと仲間と計らって乗車したのが間違い。飯田線の駅間がかくも短くかつ天竜川に沿ってうねうねと迂回するルートであり,豊橋までとてつもない時間がかかるとは思ってみなかった。へとへとになって夜遅くやっとのことで豊橋に着いたことが思い出される。したがって45年以上も前に大嵐駅を通過したことがある筈なのだが,こちらはとんと記憶が無い。

【飯田線廃線トンネルと廃線県道288号】

 大嵐駅から100mほど南にトンネル坑口が見える,水没廃線となった旧飯田線である。照明が点いていて長さ100mほど,抜けた所にある夏焼集落の生活道路として活用されているらしく,茄子苗を積んだ電動車椅子に乗ったおじいさんんが入って行った。更に先には,延長1kmほどの”夏焼トンネル”という廃線トンネルがある筈だがそこまで行く時間的余裕は無い。

 道路地図には,この”夏焼トンネル”を抜けて佐久間ダムへ通じる 静岡県道288号大嵐佐久間線がある。水窪町大嵐駅前を起点とし,佐久間ダムに至る全長16.7kmの道路で,佐久間ダムの建設に伴い,電源開発株式会社の補償により開通させ,その後,富山村・水窪町・佐久間町が林道保護組合を作って補修に携わり,更に昭和40年8月に県道に移管されたことになっている。ところが中央構造線に近く岩盤が脆いこともあって崖崩れが頻発し,沿道に集落もないことから夏焼集落~佐久間ダム間を県が管理を放棄してしまい,現在では荒れるに任せる状況で,「おばけトンネル」と,永遠に通行止の打ち捨てられた県道として道路マニアの間で有名だという。

 14時 大嵐駅に別れを告げて,来た道を佐久間ダムに向かって戻る。
 途中,豊根村役場富山支所前にある「コーヒーショップ栃の木」で遅い昼食を摂る。メニューは「みそかつ定食」ほかのみであるが結構美味しく戴いた。この店は村の補助金で作られた建物だそうだ。
 数分先に「湯の島温泉」という日帰り入浴施設がある。ここでゆっくりして行くのも一興ではあるが,日が落ちないうちにもう一箇所見たい所があるのでパス。


【佐久間発電所】
 佐久間ダムから2本の圧力水路トンネルでおよそ1.2km下流に導かれ更に4本の水圧鉄管路を流下して350,000キロワットの電力を生み出している。
 東京方面と名古屋方面両方へ電気を送れるよう50ヘルツ/60ヘルツ両用発電機となっていること,これほど大規模な両用機は現在では希少であるという。発電所脇に,佐久間周波数変換所もあり東西日本の電力融通を可能にしている重要な電力施設であることが注目される。。

 また,1972年(昭和47年)に完成した新豊根ダム(大入川。国土交通省中部地方整備局と電源開発の共同管理)との間では新豊根発電所が揚水発電を行っており,最大112万キロワットを発電する。あわせて最大約150万キロワットの発電を行っており佐久間ダムの偉大さを再認識した。

【中央構造線 今田のケルンコル】
 発電所を通過して,県道473号線を東へ,JR飯田線さくま駅の先を左折し県道293号線(佐久間羽ケ庄水窪線)の急坂を登り北条(ほうじ)峠に向かう。
 この道はわが国の地質構造を規制する屈指の断層「中央構造線」沿ってできた古道である。もっと大きな地図を見ると長野県諏訪湖から杖突峠→高遠→市野瀬→分杭峠→地蔵峠→遠山郷→青崩峠→水窪→北条峠→二本杉峠→佐久間→島中と百数十キロに渡って真っ直ぐに続く谷筋の存在に気付く。往時遠州からは塩を,諏訪からは和田峠の黒曜石を運ぶ道,秋葉神社への信仰の道,秋葉街道として,現在は国道152号線が走る中央構造線が形成した地形である。

 天竜川のある佐久間(標高135m)から標高564mの北条峠まで1車線の急登,急カーブを一気に駆け上がる。二本杉峠・羽ヶ庄の小さな集落を過ぎ,再び登り切ったところが北条(ホウジ)峠。二本杉峠から振り返ると,中央構造線に沿って、眼下の中部の町並みから島中峠の方までまっすぐな谷が続いているのがよくわかる。
   

 北条峠から北東を望むと,V字谷の向こうに尾根が鞍状に凹んだ顕著な地形が見える。通称「今田のケルンコル」である。まさに中央構造線がここを通っている証左である。この辺り一帯は,奥領家と呼ばれる地であり,日本の地質学上有名な「領家帯」「領家変成岩」「領家花崗岩」などの名称の由来となった場所でもある。
*ケルンコルというのは、断層の弱部にできる鞍部のこと(横山良哲著:美しき大渓谷1億年の旅より 発行風煤社)で、尾根がその部分だけがスプーンで削り取ったようにへこんだ形をしている。
   
 中央構造線は三河湾,紀伊半島を横切り四国北部から九州まで延びる西南日本を外帯と内帯に分断する非常に長い距離をもつ日本第一級の構造線で,活断層部分もあり,地球のエネルギーの大きさを感じながら素晴らしい景観をじっくり眺めることが出来た。
 水窪町の水窪川を跨いで泳ぐ鯉のぼりと飯田線S字橋をカメラに収めたかったが,もう午後4時半過ぎで断念。
 近い将来,この美しき谷筋を高遠方面から辿って見たいものだ思いながら帰途に着く。

 浜松着18:40,19:10発の新幹線ひかりで帰京。忙しかったが有意義な一日であった。